NOTE 01 「FLASH」を観て_2021/8/17

 真夏の住宅街の中でタクシーから降りると、一際白く輝く大きな屋根?の家が見えた。

?とつけたのは、通りに伸びた大きな屋根は、途中で逆さになってトカサのようにも見える。なんだこれは、という驚きと共に、これから不思議な建築を見るという変な覚悟が生まれた。独特のスケール感と、カンカン照りの日射を反射して崇高さが漂う白い塊の中へ入っていく。

 一通り体験して、気づいたことは「わからなさ」であった。思考のシークエンスが現前しない建築とでも言ったら良いのか、断片的に理解できても全体として見ると、結局「わからなさ」に辿り着いてしまうのである。ましてや、設計者に成り立ちの理由を尋ねずらい建築でもあるようだ。

 それはなぜだろう。この小さな住宅に散りばめられた様々な謎は、見る人に対する問いかけであり、うかつに答え合わせをしてはいけない空気が漂っているように感じられた。いつまでも宙吊りであり続けることが求められている建築なのだろうか。言語化できずにもやもやした状態のまま帰り、そして文章を書いている今も、わからなさに取り憑かれたままである。とにかく書きながら考えてみようという試みを、そのまま表現することができたらと思う。

 

現前するもの

 建築だけにかかわらず、あらゆる物事は何かしらの関係性に結び付けられ、それらが構築されながら作られていくものである。良くデザインされたものほど、関係性が明快であるものがほとんどだと私は思っている。

 「FLASH」では、様々な関係性が繋がっているのか、別のモノなのか、ギリギリの接着点でなんとかつなぎ合っているように感じられる。緊張感というよりは緩さがあり、隣り合うのものはそれぞれがとても自律的でありながら、どこか近似的であるものとして存在している。例えば、塗装の塗り分けかた、絶妙に違う2つの白、部材のプロポーション、スケールの異なった建具、反転しているよう見える対照的な屋根など、「FLASH」を構成する様々なものは絶妙でギリギリな接着点で繋ぎ合っている。それらのつなぎ目は見る人によって、どちらに属すのかどうか判断を施すような絶妙なアンバランスとギャップがある。というよりは、そのギャップ自体が何を示しているのか絶妙すぎてわからないものも多い。

 そのように書いていくと、「FLASH」は上手にデザインされたものでないようにも見えてくる。それは「デザインをする」ということではない別の方法によって組み立てられているようだ。(もちろんデザインされてない、というわけではない)

思考のシークエンスがない、もしくは思考の連関を見つけることができないものたちは、こちら側(人間)に対して何かを訴えかけようとしているものではなく、私たちと同じようにただそこにいるだけなのだろう。

浮かび上がる形式

 以前、中山英之の「O邸」を見学させてもらったことがある。京都という強いコンテクストがある土地の中で、それらとは程よく距離をとることによって、どこか浮遊感のある建築として存在していた。その距離の取り方には様々な要素があると思うが特に印象的だったのは、独特のスケール感と白く塗ったことによる素材の捨象性ではないかと思う。建物の内外に真っ白ではないが、全体的に彩度が低くて明度が高いもので覆われており、ファサードの大きなガラスとカーテンは、周辺の建物を「ミニチュアのお家」のようなものへと変容させてしまったかのようだ。「O邸」は家らしさをまといながらも、なにか別のものに変質しており、スケールや素材感から宙吊りにされた状態で、住宅ではない何かを体験させてくれる。

 

 さて、「FLASH」で体験した際に、この「O邸」での経験を思い出したということなのだが、今回その宙吊りされた状態で建築を見るという経験から、その抽象的な経験の正体が「形式」にあるのではないかと気づくことができた。「O邸」における「形式」とは「廊下と部屋」であり、まるでホテルのような平面は、どこか遠くのノスタルジックな風景を連想させる。

 そして「FLASH」の1階のプラン(柱と建具で間仕切っている)からは、民家の「形式」を連想させられる。「O邸」のホテル的な平面形式と同様に、「FLASH」の民家的形式の体験はさまざまな想像的な広がりを与えてくれる。例えば、2階で枝分かれしている象徴的な柱については、最初は民家的といよりも、どちらかというと篠原一男的だという印象を得たのだが、篠原もまた民家からスタートしていたことを思いださせる。さらに、篠原の柱の枝分かれした斜材における「隠蔽」と「現し」という系譜(「土間の家」や「白の家」などではその斜材は隠されているが、次第に現されるようになっていった)からは、2階が1階からは通常は見えないはずの屋根裏という存在に感じられ、外観から見られる大きな軒と反転したような屋根の笠と対比関係であることが、1階と2階の空間のフィクショナルな関係であることのようにも読むことはできないだろうか。また、敷地の目の前の畑からコンクリート土間との連続性も、民家的な「形式」から連想させるものであるようだ。

 

 「形式」とは形のルールであり、スケールやマテリアリティは存在しないが、そこにはノスタルジックな感情が潜んでいる。また形式とは、元は機能と形が一体化したのものであったが、次第にそれらは引き裂かれ、「カタチ」のみが引き継がれていく。しかし、わかれたはずの「ナカミ(機能)」の記憶は密かに残り続け、「形式」の純粋さを徹底することで、「ナカミ」の記憶が奥底から引き出されるのではないだろうかと思う。「FLASH」のノスタルジックさは「形式」の純粋さから生まれ、素材や古さを扱うことなく懐かしさを持った抽象的な体験を作り出すことを可能としている。

 

個人的なものから生まれる建築

 モノの意味を最小限にし、モノそのものとして存在させること。そして、形式性を最大限引き出し、想像の広がりを生み出すこと。具体的であり、抽象的である。それらが交わり共振することで、人の認識に揺さぶりをかけていく。理解することが建築の目的なのではなく、その場所、そのモノ自体を経験、想像させることができる建築なのだと思う。論理の内側で設計せず、モノや場所性にも頼ることもなく、設計者個人の感覚や経験を詰め込んでいる建築にしか生みだせない広がりがあるはずで、だからこそ、見るものを試し見るものと対話することができるのだと思う。